231103日記_ホックニー展を観る

デイヴィッド・ホックニー展 東京都現代美術館
11/3(祝・金)am10:10〜11:10くらい

デイヴィットホックニーを知ったのはいつだろう。
しっかりと認識するようになったのは40代になってからかもしれない。

私の中でなぜがホックニーとエドワード・ホッパーを混同している。そして、どちらかというとホッパーの方が好きだった。

ホックニーを強く意識するようになったのは『秘密の知識』という本を読んでからだ。
ホックニーが過去の巨匠の作品について探究するというそんな本だ。

西洋絵画の写実的な表現に関してホックニーは「これは何か機器を使ってなぞっているのではないか」という疑問を持つ。そして、文献などを調べ、その機器を再現して自分でも描いてみるという試みをする。

当時、私は舞台美術研究に力を入れていて、その中で古代ギリシアの遠近法についての文献を読んでいた。それは魚眼レンズのように世界を捉える方法で、ルネサンスの一点透視図法よりも優れているのではないかというものだ。そんな本を読んでいる時にホックニーのこの本を知り一気に興味が湧いた。

現役の画家でありながら、過去の歴史を探究する。いや、現役の画家だからこそ探求できるのかもしれない。そんなホックニーの姿勢に、舞台美術家をやりながらも舞台美術の歴史を研究してもよいのだと思った。むしろ、現役の舞台美術家だからこそ探求できるものもあるのだと思った。

ホックニー展に話を戻そう。見に行こう見に行こうと思っていて結局いつも会期ギリギリになってしまう。でもみんなそんなものだろう。だからこそ会期間際はとても混み合う。

11/3(祝・金)am10時過ぎに行く。すでに入場まで30分待ちとアナウンスがあったが思ったよりスムーズに入れた。休みの日の美術館は本当に混んでいる。それだけ芸術に興味がある人がいるということだろうか?劇場への集客は本当に厳しいと言うのに、美術館が羨ましい。まあそれは美術館も同じかもしれない。ビッグネームがある時はお客が入る。それは舞台芸術も同じだ。

20代30代の時は展覧会に行ったら、クマなく隅々までまで見るようにしていたが、最近はかなりザッと見るようになった。頭で見ていたものを身体で見るようになった。理屈で見るようだったものを感覚で見るようになった。頭の中のキャパシティが減ったのかもしれない。自分のことで結構頭がいっぱいで他の人の人生を隅々まで知ろうとする余裕はない。

だから自分の琴線に触れた作品だけを拾っていく。
結局それでいいのだと思う。そこで目に止まったものが今の私に必要なものなのだと思う。
芸術を見るということはそういうものだ。

今回は私が気になったのは以下の作品。

『スプリンクラー』
『両親』
『春の到来イーストヨークシャー』
『ノルマンディーの12ヶ月』

スプリンクラーやプールを描いたホックニーの作品はとても好きだ。
  

プール作品がなかったのが残念だ。日常の切り取りなんだけれども、完全なリアリズムではなくうまく余白があるから見ていてとても気持ちがいい。

『両親』

この作品は初めて観た。
両親と共に私は背景の壁が気になった。
この深み。私は舞台美術家だから背景の壁をとてもよく考える。それが単調になってしまうことをいつも悩む。この作品の壁は深い味わいがあり見るものにプラスアルファの何かを与えてくれる。

・春の到来イーストヨークシャー
 

イギリスのヨークシャー東部で2011に制作された作品だ。
この辺りからホックニーの表現者としての自由さを感じる。溢れんばかりの創作。無理がなく自然に湧き出てくる様(さま)にこちらも創作意欲が掻き立てられる。

・ノルマンディーの12ヶ月

こちらも然り。溢れんばかりの創作。iPADで220点もの風景画を描きそれを再構築したものだ。
私もこうありたいと思う。このようなスタンスで表現できたらどんなに気持ちがよいだろうか?絵画を鑑賞する目的は人それぞれ違うと思うが、私は自分の根っこにある創作意欲を育てる為に来ているのかもしれない。私の創作意欲、表現の欲求はとても深いところに眠っている。このままでは目を出さないでいるかもしれない。しかし、それらが芽を出したがっている事も感じる。自分ではどうしようもこの気持ちを人の作品によって掘り起こされる事を期待しているのかもしれない。

そういう意味では今回のホックニー展は期待通りに私の創作意欲の芽をまた少し掘り起こしてくれた。

2023_11/3

カテゴリー: 日記 パーマリンク

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です